陰翳礼讃

陰翳礼讃 (中公文庫)

陰翳礼讃 (中公文庫)


谷崎潤一郎の文章を初めて読んだ。
実は私は若い頃にいわゆる純文学というものをあまり読まないまま成長してしまい、大人になってから純文学を読むというのも何かいまさらな感じがして、50に近くなった今までほとんど読んでいない。
私の読書は、知識を蓄えるツールとしてのスタンスが多いわけで、純粋に文学が好きなわけではないのだと思う。・・・って威張って言うほどのことでもないが。
そんな私にとって、衣食住は元より、女性、恋愛、旅、文章などに対するこだわりや美意識を惜しげもなく披露するこの随筆は、何かいきなり文豪の核心に触れられるような気がするお徳な作品と言えるかもしれない。


何年か前に上野で興福寺の阿修羅像を見る機会があった。棒のようなスレンダーな体型や憂いを含んだ表情に多くのファンは魅了されているのだろう。中宮寺の半跏思惟像のような性的な風情をまったく感じない仏像に非常に惹かれる。
しかし、もし阿修羅像が造られた当時のままの姿だったとしたら、多分魅力が半減してしまうと思うのだ。何かの本で、阿修羅像の元の姿のCGを見たが、体は赤に近い褐色で、緑と金色という衣にきらびやかなアクセサリーををまとった一昔前の中華料理屋のような姿に興ざめしたものだ。
おそらく、長い年月を経て色が落ち、茶色のグラデーションという地味な姿だからこそ日本人を魅了するんだと思う。
寺社仏閣などもそうで、おととし訪れた京都宇治の平等院なども、再現されたド派手な内装より今ある壁が剥げ落ちた姿のほうが幽玄な美しさを感じるし、ありがたみも増すような気がしないだろうか。


江戸紫とか、団十郎茶とか、化政文化の頃から江戸でもてはやされてきた繊細なトーンの色は、寛政の改革で派手な文化が禁止された際に、庶民が発明したものだという。現代の我々もそういう地味だけど微妙な色に日本的で美しいと感じる。いったい、こういうセンスというのは日本人に元からあったものなんだろうか。

案ずるにわれわれ東洋人は己の置かれた境遇の中に満足を求め、現状に甘んじようとする風があるので、暗いといふことに不平を感ぜず、それは仕方のないものとあきらめてしまひ、光線が乏しいなら乏しいなりに却ってその闇に沈潜し、その中に自らなる美を発見する


というのが谷崎純一郎の意見だ。
なるほど、と思うふしもある。
先日の娘の成人式で思ったことだが、和服を着るときの煩わしさと運動機能を無視した構造は、なるべく布地のありのままの姿を保つために人間のほうが服に合わせてるんじゃないかと。
布団で寝たり、正座したり、また箸での食事も、必要最小限のモノとスペースで済むための工夫ではあるが、頭の良さと器用さを持った日本人ならベッドや椅子やスプーンなどを早くに発明していてもよさそうなものだが、長い間そうしなかったのはすべてにおいて人間本位な姿勢がなかったからではないだろうか。
しかし、明治以後の西洋文明の取り入れ方のスムーズさを見ると、単に気づかなかっただけとも思えるが。(笑)


日本独自の美意識を持つに至った要素として、260年もの長い間続いた鎖国時代というのもあると思う。外国との接触を極力避けることによって美意識もガラパゴス化が進んだのかもしれない。
徳川家康が日本人の原型を作ったと言ったら過言だろうか。
もし三河人ではなく尾張人が天下を取っていたら、私もきらびやかだった阿修羅像が好きになっていたのかな。