のぼうさまのお寺

最近はmixiばかりでこっちにはちっとも書いてませんでしたね。
昨年5月の京都旅行の日記を久しぶりに読んで、なんだか遠い日の出来事のように感じてます。
あの旅行が最後の義母との旅行になりました。
今年の6月5日、義母は息を引き取りました。


なんだか、まだ今は最期の様子とか思い出すのが辛いですね。
ていうか、亡くなった実感も正直ないです。


で、一昨日の18日、義母の四十九日法要を無事済ませました。
本当にあっという間ですね。
まさに光陰ゴッドゴーガンの如し。


無駄に長生きしたとて、1日でも真実の道理に従った生活ができれば、その功徳はあまねく一生を覆うことができるんですと。
煩悩まみれの現時点では、まだまだ真理には到達できませぬ。
道元さん、ごめんよ。


法要前、本堂に行く廊下になにげに映画「のぼうの城」のポスターがあるのに気づきました。
マイミクさんはご存じでしょうが、我が家のお寺は成田家の菩提寺なんです。
来年公開予定の映画の影響か、最近成田家がメディアに取り上げられる機会が増えてる気がしますね。
来週25日のTHE ナンバー2はのぼう様こと長親さまが取り上げられますよ。
BS-TBSで22時からです。


忍城おもてなし甲冑隊のみなさんも出るそうですから。要チェックですよ。
近いのになかなか行けなくて、動いてる甲冑隊を見たことがないんですよ。
酒巻靱負さま、画像で見る限りではけっこうかわいいんですよね。 (*´エ`*)


その忍城甲冑隊のみなさんが我が龍淵寺にお墓参りにいらしてたんですね。
↓公式ブログより
http://ameblo.jp/oshijo-omotenashi/entry-10932244675.html


開基した家時さんのお墓が正面に見える通路の脇にうちのお墓あったんですよね。
ここは区画整理の際も手付かずのところなんです。
昭和40年代にちょっと広いとこに移転したんですが、その際にはものっすごい古そうな墓石とか出てきたそうです。
おそらく開基した当時から我が家の先祖は成田家に仕えていたんでしょうな。


亡くなった義父や祖母によると、我が家は成田家においてそこそこ重鎮だった時代もあるらしいんです。
昨年、本家の方にたまたま会ったときも「うちはエラい家だったそうですよ〜」っておっしゃっていたし、何よりもお墓の位置的に、室町時代中期くらいまでは本当にエラかったのかも知れんと、密かに推察しているのであります。


上のブログで甲冑隊のみなさんが見ている分限帳は、いわゆる龍淵寺本といわれている天正10年のもの。
天正10年・・・激動の年でしたなぁ。(遠い目)←なぜ


で、これは天正17年の忍侍分限帳↓
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秀吉の北条攻め、そうあの三成の水攻めの前の年です。
なので、成田家が地元にいた時代の最後の分限帳ですね。


靱負さまと同じページで3百貫の高禄で載っている松岡丹波はうちの親戚のご先祖です。
昨日の法要でもお会いしましたよ。
へヘン、すごかろう?( ̄ー ̄)


で、うちはというと・・・


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この辺りに来ると文字もかなり面倒くさそうで読みづらいんですけど、「弐拾貫 ○○十郎兵衛」て書いてあります。
でもね、天正10年時点では30貫だったですよ。


わずか7年の間に10貫も減らされてるしorz・・・


まったく、何をやらかしたんだろうか、うちのご先祖は。