田沼意次

このところ毎日のように「贈収賄」という言葉がニュースで飛び交っている今日この頃、田沼意次と某前防衛事務次官をつい何かと比較しつつ読んでしまった。

田沼が権勢を振るった宝暦から天明年間は、前時代の元禄の頃から横行し始めた賄賂政治が当然のことと認識され、金品をもって官位や昇格を実現することが一種の常識としてまかり通っていた時代だった。意次は、将軍のそばに仕える中奥のトップである側用人と幕府政治のトップである老中を兼任した。さらに、将軍家重と家治の2代に渡って権勢をふるった。これは前代未聞のことであったらしい。
権勢を誇っている者には、本人が望む望まないに関わらず有象無象が群がってくるのは古今東西共通であるといえる。まさに幕府の全権を掌握してるといっても過言ではない意次の全盛期は、ゴルフ接待どころの騒ぎではなく、かすかな関係をも頼って出世工作の嵐にさらされていた。意次本人ではなく、家来経由で贈収賄が横行していたらしい。だから意次が全くの清廉潔白な人物であるとは言い切れないのだが、少なくとも自ら「おねだり」はしていなかったと私は思う。家来の末端にまで行き届いた心配りをし、田沼家没落後、家来に暇を出したときも手当金を配っていたりという行動は、自らの利益のみに執着する人物ならば出来ない芸当ではないだろうか。
異例の出世を果たし幕府の中枢に君臨した意次だが、没落はその出世のスピードに輪をかけて急速におとずれた。まだ家督を継いでいなかった部屋住みの長男意知(おきとも)も奥勤めと若年寄を兼任する異例の出世を遂げ、まさに比類なき権勢をほしいままにしていた田沼家だったが、その意知が城内での刃傷沙汰により死亡したあたりから歯車は狂い始めた。さらに将軍家治の死亡により一気に没落への道を辿っていく。意次との関係を求めて集まっていた者たちが、ことごとく、一気に、すっぱりと田沼家との縁を切ったあたり、彼らの権力へおぞましいまでに固執する様が見えて背筋が寒くなってしまう。
意次が試みた数々の政策に関しては賛否両論あるようだが、本気で日本の政治を考えていたことは見てとれる。とりわけ若い頃はおそらく公務に邁進するのみで、気がついたら幕府の中枢にいて、いつの間にかその権力に群がる輩に翻弄されていた、というところだろうか。