閉じられた海図

水野忠邦の天保の改革の少し前、岩見国浜田(現在の島根県浜田市)で海運業を営む会津屋八右衛門という男が、鎖国の禁制を犯して南の海へ航海し貿易を行っていた。その動機は私利私欲ではなく、藩主松平康任の猟官運動が原因だった。
わずか六万石の小藩の藩主が、本丸老中首座という地位にまで上り詰めるためには巨額の賄賂が必要だった。日夜江戸に送る金の工面で走り回っていた藩の勘定方に勤める橋本三兵衛の元へ、八右衛門が禁制となっている密貿易を持ちかける。竹島(現在の竹島ではなく、韓国領のウルルン島のこと)との密貿易で運上金を藩へ差し出すという。危な過ぎる橋とは知りつつも、もはや万策尽きた三兵衛は、八右衛門の提案する密貿易にすがるしか道はなかった。
やがて八右衛門はかつての御朱印船貿易の航路、赤道を超えインドネシアにまでも乗り出していく。幕府の厳しい掟を破ってまで外海の航海を続ける八右衛門の心には、藩財政の再建という目的もあっただろうが、幕府への批判もあった。そして何より自らの好奇心を満足させずにいられない性分が危険な航海に走らせたのだろう。
間宮林蔵との会話の中に、双方の立場こそ違え同じ血が流れていることをうかがわせる内容がある。幕府の隠密として人から疎まれながらも仕事をこなす間宮にも、常に北の海への憧れが強く渦巻いていた、と。

すべてが露見し、藩主松平康任は失脚し(密貿易が原因ではないが)、三兵衛、八右衛門は死刑となった。
幕府は八右衛門が南の海にまで進出したことはひた隠しにし、その後さらに鎖国を徹底させる政策に出る。しかし、モリソン号事件があり、幕府への批判が起こり、蛮社の獄を経て幕府は瓦解への道を転がることになる。八右衛門の事件はそのシナリオの序文だったのだ。
浜田市には八右衛門顕彰碑が建てられ、現在でも土地の人々は八右衛門のことを誇らしげに語るという。